このコーナーの文章は、『生衛ジャーナル』(編集・発行 財団法人全国生活衛生営業指導センター)の2002年7月号から2003年5月号まで連載されていた『狛犬鑑定団が行く』というエッセイを元に、若干書き直したものです。
しかし、太平洋戦争を迎える頃には、徐々に芸術性が失われていくようです。
台座に「皇紀二六〇〇年」という年号が刻まれている狛犬をよく見かけますが、これは昭和15(1940)年のことです。太平洋戦争開戦前年にあたり、全国の神社では国威発揚を意図した様々な祝典が行われ、その際に狛犬なども多数奉納されました。
この時期の狛犬は単純に厳つい顔で、味気ないものも多いのですが、台座に「奉納・大東亜戦争参加者」「○○男女青年団」などと刻まれ、出征する兵士の無事を祈念して建立されたと思われる狛犬もいて、複雑な思いで見つめてしまいます。
中には、「戦死」した狛犬もいます。戦前に建立されたブロンズ狛犬の多くは、鉄砲の弾にされるため供出され、命を落としました。大阪天満宮、草加氷川神社(埼玉)、子鍬倉稲荷(いわき市)などには、現在、石造りの狛犬がいますが、台座には、戦争のために供出したブロンズ狛犬を再建したという記述が残されています。
こうして再建されることもなく、溶かされて死んでしまった狛犬も数多くいるでしょう。
子鍬倉稲荷の再建狛犬(昭和11年建立のブロンズ狛犬を昭和27年に石で再建)は、山野辺大五郎という石工の手によるものですが、大五郎はそれより27年前の大正14(1925)年、諏訪神社(いわき市平豊間)に変わった狛犬を残しています。沼之内弁財天にある安永2(1773)年に作られた狛犬のレプリカです。沼之内弁財天の狛犬の台座には、奉納者として山之内戊左エ門という名前が残っています。まだ若かったとき、先祖に思いを馳ながら、石工としての腕を磨いたのかもしれません。そんな大五郎だからこそ、戦争で失われた狛犬を自分の手で再び甦らせたときの感動はひとしおだったでしょう。
(このエピソードは「2003年版南福島狛犬探訪」に詳しく書いてありますので、
そちらをどうぞ)