井亀泉(せいきせん)とは酒井八右衛門のこと。明治30年だと、名人といわれた二代目八右衛門にあたるようです。それが明治30年にこれを彫っている
わけです。
となると、当然、それを囲む石柵は明治30年以降に造られているはずです。最初に石柵があって、後から歌碑をそこに入れるわけがないですから。
外の狛犬には明治26年という銘がありますから、寅吉はすでにこの地に明治26年に狛犬をおさめている。ところが、その後、そのクライアント(同一人物あるいはグループかは分かりませんが)は、地元福島県が誇る名工・寅吉ではなく、東京のブランド石屋に歌碑を発注した。寅吉には歌碑を囲む塀だけを発注したのでしょう。
寅吉としては当然面白くなかった。俺の腕に文句があるのか。そんなに江戸のブランド石工がいいのか。というわけで、主人公であるべき歌碑が見えなくなるくらいものすごい柵を造ってしまった。
……多分、こんな状況だったんじゃないでしょうか。
あの負けん気な顔を思い出してみれば、そういうことも十分ありえるでしょう。そうだとしたら、実に痛快なドラマですね。
明治30年代は、寅吉父子は雲照寺にこもって三十三観音プロジェクトを完成させたり、西郷神社の社殿を彫っていたり、力がピークにあったとき。それにしても、すごいエネルギーですねえ。
上の写真の「亀」は、石柵の透かし模様のひとつ。こんな細工が石柵の周囲にびっしりほどこされているのですから、仕事の細かさは鬼気迫るものがあります。
もし、中の歌碑が井亀泉のものではなかったら、寅吉はここまで燃えたかどうか……。そう思うと、やはり井亀泉ブランドは偉大なのかもしれません。