狛犬の精神史(2)


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よく「伊勢神宮や明治神宮などの有名な神社に狛犬がいないのはなぜか」という質問を受けます。
実は伊勢神宮にも明治神宮にも狛犬はあるのですが、参拝客が見ることはできません。
また、日光東照宮の陽明門裏側には極彩色の木彫狛犬が設置されていて、陽明門が国宝指定されていることから、この狛犬も国宝の一部であると思いこむ人が多いのですが(実はかくいう私も以前は「そうなのか?」と疑問に思っていました)、この狛犬は大正時代に発注されていて、江戸時代どころか、明治期の狛犬でさえありません。当然、国宝にもなっていません。

これらの狛犬に共通しているのは「木彫狛犬である」ということです。

伊勢神宮の「天皇が奉納した狛犬」

まず伊勢神宮の狛犬ですが、これは倉庫の奥にしまい込まれていて、神宮徴古館、神宮美術館などにも展示されていません。
狛犬研究の大先輩である上杉千郷(1923-2010)氏は、生前、こう語っていました。
「実は伊勢神宮にも長暦3(1039)年の木彫り狛犬が倉庫の中に眠っています。極彩色で、いい狛犬です。ところが、これは門外不出で、どこにも出してありません。なぜ伊勢神宮に狛犬がないかといいますと、伊勢神宮というところは伝統を非常に……あの……(重んじる)。伝統のもの以外については極めて厳しい……そういう制度があるわけです(宝物として見るかどうかという考え方がとても厳しい)。例えば、とくさの剣であるとか、いろいろ、そういう刀があります。それらの一分一厘、作者の由来と、世代番号を振っております。ということで、宝物ということになると、やはり……狛犬というものは……ちょっと、いらないという……そういう考え方じゃないかと思います」(2008年6月8日 日本参道狛犬研究会のメンバーを連れて伊勢神宮へ向かうバスの中で)

この狛犬のことは、上杉氏の著作にも出てきません。
貴重なものだから公開しない、のではなく、存在を知られたくない、あっては困る、という意識さえ感じられます。
結果、この狛犬のことを知っている人はほとんどいませんし、ネット上を検索しまくっても、画像はおろか、存在のことに触れている文章もありません。
わずかに『狛犬の歴史』(藤倉郁子・著、岩波出版サービスセンター、2000)の中に、『皇代記』の中に後朱雀天皇が伊勢神宮に獅子狛犬を奉献している記録がある、という記述があるくらいでしょうか。
塙保己一の『群書類従』の中に収められた「皇代記」、後朱雀天皇(1009-1045)の箇所。「長暦3(1039年)年5月19日」に「有伊勢奉幣有震茟宣明被奉金銀師子狛犬」とある
奉幣(ほうへい)」とは天皇が神社・山陵などに幣帛(へいはく)(神前への供物)を奉献すること。「震茟(しんひつ)(筆)」は「宸翰(しんかん)」ともいい、天皇の直筆文書のこと。「宣明」は宣言して明らかにすること。つまり、天皇自身が直筆で「金銀の獅子・狛犬を奉献した」と書いているわけです。
神社界の重鎮であった上杉氏の「極彩色で、いい狛犬です」という言葉からして、木彫であることは疑いありません。今も極彩色であるなら、色は後世に塗り直しているのか、レプリカなのでしょう。
見ることができないし写真も見つからないので、どんな形状なのかは分かりませんが、「公家狛犬」に間違いないので、吽像には角があるのだと思います。

明治神宮の内陣狛犬

明治神宮は「明治天皇を祀る神社」として、明治天皇崩御後の大正9(1920)年に創建された新しい神社です。
その内陣にあるという狛犬については、「明治神宮御写真帖 : 附・御造営記録」というものに掲載されている写真で知ることができます。
この本は、明治神宮創建の年である大正9年に帝国軍人教育会が刊行したもので、明治神宮ができるまでの経緯が記され、当時の写真などが多数収録されています。

大正9(1920)年、帝国軍人教育会編纂の「明治神宮御写真帖」に収録されている明治神宮内陣の狛犬

一目で分かるように、これは大宝(だいほう)神社狛犬(国重要文化財指定)の模作です。
この写真のキャプションにはこうあります。
内陣御装飾の獅子狛犬にて、()(これ)は、斯界(しかい)(この分野)の巨匠米原雲海氏惨憺たる苦心の彫刻なり。
この米原雲海という彫刻家は、
明治2年(1869)出雲国安来(現島根県安来市)に生まれた。(略) 初め建築彫刻を学び大工となったが,京都や奈良の彫刻に触発されて彫刻家を志し,明治23年には上京して,高村光雲(たかむらこううん)(1852~1934)に師事した。その後,日本美術協会展や内国勧業博覧会等で受賞を重ね,山崎朝雲(やまざきちょううん)(1867~1954)とともに光雲門の双璧と称された。明治27年には,師光雲の号にちなみ雲海と号した。明治28年には東京美術学校雇(やとい)となり,同30年まで勤務する。西洋彫刻の制作法も採り入れ,明治30年には石こう原型をもとに比例コンパスを使って拡大する技術を用いて《ジェンナー像》を制作し,木彫界に革命を起こした。明治40年には岡倉天心(おかくらてんしん)(1863~1913)の下,山崎朝雲や平櫛田仲(ひらくしでんちゅう)(1872~1979)らとともに日本彫刻会の結成にも参加し,以降,東洋的な題材の作品を多く制作する。文展や帝展の審査員も歴任し,大正8年(1919)には長野善光寺の仁王像を光雲との合作により完成させる。大正14年死去。 (「文化遺産オンライン」より)

……という人物です。
比例コンパスというのは、原型にコンパスをあてて、一定の比率で拡大・縮小させるための道具のことです。今なら3DプリンターやNCルーターといったコンピュータを使った技術で簡単にできますが、明治時代にはコンパスを使って原型を拡大・縮小コピーすることも「革命」と呼ばれるほど画期的なことだったのでしょう。
↑大宝神社の狛犬 (京都国立博物館「獅子・狛犬」より)

つまり、米原雲海は「大宝神社の狛犬を模して作ってほしい」と依頼されたわけです。
ではなぜ大宝神社の狛犬でなければならなかったのでしょうか。
「明治神宮御写真帖」にはこんな記述があります。
神社用の装飾は、国民崇敬の中心率とならねばならぬから、故実に準拠することは、我が国体の上から見ても争われぬ事項に属する。それがために支払われた苦心も一通りではない。形状、紋様、彩色等は最も考証を要すべきもので、美術の上から見ても、神社の用いるべき故実の上から見ても、適当な文様や彩色を選ばねばならぬために、これらを調整せらるる裏面には、非常な苦心の存したことを伺い得られる。

狛犬のキャプションには「内陣御装飾の獅子狛犬にて」とあるので、狛犬は「装飾品」であると認識されていたことが分かります。
その上で、装飾は「国民崇敬の中心率とならねばならぬから、故実に準拠することは、我が国体の上から見ても争われぬ事項に属する」という指針で明治神宮造営は進められていたわけで、その「国民崇敬の中心率」となるにふさわしい「故実」であると認められた狛犬が、伊布岐里(伊吹山山麓にあったと思われる村)の惣(農民の組合的組織)が奉納した大宝神社の狛犬だったというわけです。
当時の惣の人たちがこれを知ったら、大喜びしたことでしょう。

ところで、この狛犬は現在もあるのでしょうか?

明治神宮は、昭和20(1945)年4月にアメリカ軍の空襲により境内に1300発以上の焼夷弾が落とされて、社殿を含めてほとんどの建造物が焼失しています。当然、米原雲海が彫った大宝神社型狛犬も燃えてしまったはずです。
現在の社殿は戦後に再建されたものですが、再建された社殿内陣に現在もこの狛犬があるとすれば、戦後に復刻したものでしょう。米原雲海は大正14(1925年)年に亡くなっているので、復刻した彫師は別の人物ということになります。
現在、内陣に狛犬が置かれているとしても、それが私よりも若い(昭和30年以降に生まれた)大宝神社型であることは間違いないと思います。

大宝神社狛犬が「国宝」になったのはなぜ?

国の国宝や重要文化財というものはどのような理由で指定されているのかということも、少し調べてみました。

明治4(1871)年、明治新政府は、自分たちが発した神仏分離令が引き起こした廃仏毀釈の嵐によって全国で多くの文化財が破壊されたり、流出したことに危機感を抱き、「古器旧物保存方」を布告して、古器旧物の目録および所蔵人の詳細なリストの作成・提出を命じました。 その後、明治28(1895)年に内務省に古社寺保存会が設置され、明治30(1897)年6月に「古社寺保存法」が定められました。
これが文化財保護を目的とした最初の法律で、以後、昭和4(1929)年の「国宝保存法」、昭和25(1950)年の「文化財保護法」へと引き継がれていきます。
この古社寺保存法によって、いわゆる「国宝」が誕生したわけです。

現在は国宝と国指定重要文化財とは区別されていますが、古社寺保存法の制定時は、「特ニ歴史ノ証徴又ハ美術ノ模範」であるものを「特別保護建造物」または「国宝」としたので、建造物以外の文化財、美術品などはすべて「国宝」とされました。

現在、国の重要文化財指定を受けている狛犬は33件あります。
指定された年月が古い順に並べると、以下のようになります。

(所有者 種類 製作年代(推定含) 指定年月日)
  1. 和歌山県 丹生都比売神社 木造狛犬 鎌倉 1899.08.01(明治32.08.01)
  2. 和歌山県 丹生都比売神社 木造狛犬(2対) 鎌倉 1899.08.01(明治32.08.01)
  3. 広島県 厳島神社 木造狛犬(14躯) 平安~桃山 1899.08.01(明治32.08.01)
  4. 滋賀県 大宝神社 木造狛犬 鎌倉 1900.04.07(明治33.04.07)
  5. 香川県 水主神社 木造狛犬 室町 1901.03.27(明治34.03.27)
  6. 京都府 八坂神社 木造狛犬(伝運慶作) 鎌倉 1902.04.17(明治35.04.17)
  7. 兵庫県 高売布神社 木造狛犬 鎌倉 1904.02.18(明治37.02.18)
  8. 福岡県 宗像大社 木造狛犬 桃山 1904.02.18(明治37.02.18)
  9. 福岡県 宗像大社 石造狛犬 中国北宋時代 1904.02.18(明治37.02.18) 建仁元年施入ノ背銘アリ
  10. 福岡県 観世音寺 石造狛犬 鎌倉 1904.02.18(明治37.02.18)
  11. 京都府 御上神社 木造狛犬 平安 1909.04.05(明治42.04.05)
  12. 京都府 由岐社 石造狛犬 鎌倉 1909.09.22(明治42.09.22)
  13. 京都府 高山寺 木造狛犬 鎌倉 1911.08.09(明治44.08.09)
  14. 京都府 高山寺 木造狛犬(3対あり) 鎌倉 1911.08.09(明治44.08.09) 内二躯ノ台座ニ嘉禄元年八月一六日行寛ノ記アリ
  15. 愛知県 深川神社 陶製狛犬 室町 1912.09.03(大正1.09.03)
  16. 岐阜県 日吉神社 石造狛犬 桃山 1914.08.25(大正3.08.25) 天正五年五月不破光治造之ノ銘アリ
  17. 薬師寺(東京国立博物館保管) 木造狛犬 平安 1924.04.15(大正13.04.15)
  18. 石川県 白山比咩神社 木造狛犬 鎌倉 1924.08.16(大正13.08.16)
  19. 広島県 御調八幡宮 木造狛犬 鎌倉 1917.08.13(大正6.08.13)
  20. 滋賀県 白鬚神社 木造狛犬 鎌倉 1928.08.17(昭和3.08.17)
  21. 京都府 藤森神社 木造狛犬 平安 1936.05.06(昭和11.05.06) 胎内ニ徳治二年修補ノ銘アリ
  22. 奈良国立博物館 木造狛犬 1940.10.14(昭和15.10.14)
  23. 京都府 籠神社 石造狛犬 桃山 1942.12.22(昭和17.12.22)
  24. 広島県 吉備津神社 木造狛犬(3躯) 鎌倉 1942.12.22(昭和17.12.22)

    -----------ここまでが敗戦前--------------
  25. 東京都 大国魂神社  木造狛犬 鎌倉 1949.02.18(昭和24.02.18)

    -----------ここから「文化財保護法」--------------
  26. 千葉県 香取神宮 古瀬戸黄釉狛犬 鎌倉~室町 1953.03.31(昭和28.03.31)
  27. 宮崎県 高千穂神社 鉄造狛犬 鎌倉 1971.06.22(昭和46.06.22)
  28. 石川県 白山比咩神社 木造狛犬 鎌倉 1989.06.12(平成1.06.12)
  29. 奈良県 手向山八幡宮 木造狛犬 鎌倉/附 江戸 2000.06.27(平成12.06.27)
  30. 岡山県 吉備津神社 木造獅子狛犬 南北朝 2002.06.26(平成14.06.26)
  31. 東京都 谷保天満宮 木造獅子狛犬 鎌倉 2003.05.29(平成15.05.29)
  32. 滋賀県 若松神社 木造獅子狛犬 平安 2015.09.04(平成27.09.04)
  33. 京都府 教王護国寺 木造獅子狛犬 平安 2019.07.23(令和1.07.23)

狛犬の国宝指定はほとんどが戦前で、戦後は重要文化財に分類されています。戦後に重要文化財指定された狛犬は9件のみで、高千穂神社の鉄造狛犬を除いてすべて鎌倉時代以前の木彫狛犬(公家狛犬)です。

大宝神社の「国宝」指定は、丹生都比売神社、厳島神社(同時に指定)とほぼ同時、古社寺保存法制定3年後の明治33年4月に、早くも「国宝」になっています(現在は重要文化財指定)。
ちなみに運慶の作とも伝えられている京都・八坂神社の木造狛犬でさえ、指定されたのは大宝神社の狛犬より後です。
八坂神社の狛犬は清涼殿御帳台横の狛犬とそっくりで、公家狛犬の代表ともいえるものです。

↑清涼殿の狛犬

↑八坂神社の狛犬

これよりも先に大宝神社の狛犬が「国宝」に指定されているのです。
大宝神社の狛犬はすでに説明しましたように、伊吹山の麓にあった村の「惣」(村民の組織)が奉納したと思われる狛犬です。その狛犬が早々と国宝に指定されたのは、明治新政府が押し進めようとした国家神道の下での挙国一致体制にふさわしい、凛々しくて力強い像容だと見込まれたからでしょうか。
ともあれ、大宝神社の狛犬は早々と「国宝」とされたことで権威もつき、以後、多くの模倣作が生まれました。
明治神宮創建よりも少し前の大正5(1916)年に日光東照宮陽明門裏側に置かれた狛犬もそうです。
↑日光東照宮陽明門裏の狛犬

陽明門の狛犬は、大正5年に「追加」されたもので、陽明門とは関係がなく、国宝でも重文でもありません。東照宮の一大リニューアルをして陽明門を建てた徳川家光はもちろん、江戸時代の人たちはあの狛犬の存在を知らないわけです。
徳川にとって聖地であり、家康を権現として祀った神仏習合の東照宮に、徳川を倒した明治新政府が「これぞ我が国体の上から見て国民崇敬の中心率となるにふさわしい伝統的な装飾品である」と認めた狛犬が割り込んできたわけです。なんという皮肉でしょうか。

大宝神社狛犬のコピーが陽明門に持ち込まれた大正5(1916)年は、日光の社寺が荒廃するのを防ごうと地元の有志や旧幕臣たちが設立し、苦労を重ねてきた保晃(ほこう)会が解散した年にあたります。
狛犬を発注したのはその2年前に新たに設立された日光社寺共同事務所らしいというのも、背景にいろいろありそうで気になるところですが、昔のことであり、正確な資料も今のところ見あたらないので、これ以上の詮索は避けておきましょう。

ともあれ、大宝神社の狛犬は、明治新政府によって早々と「国宝」(現在は重文)とされたことで箔も権威もつき、岡崎で量産された「岡崎古代型」狛犬のモデルにもなりました。
岡崎古代型狛犬は岡崎現代型狛犬と並んで、戦前の皇紀2600年をピークとした狛犬奉納ラッシュ時には数多く作られ、戦後になっても、全国の護国神社を中心として奉納し続けられています。

大正期前後:個性的でアート志向の狛犬が増える

すでに説明しましたように、江戸時代に全国的な狛犬奉納ブームが起き、自由な進化・発展を続けていた民間狛犬、特に「旦那狛犬」は、明治新政府の神仏分離令や、それが引き金となって民衆が暴発した廃仏毀釈の嵐などにより、明治前半は低迷期に入ります。
明治一桁の年号がある狛犬は数が少なく、あっても江戸末期の名品に比べると見劣りするようなものが多いように思います。
しかし明治20年あたりからは、それまでの狛犬空白期に溜まった鬱憤を晴らすかのような民間狛犬が続々と誕生しました。

当時の日本は富国強兵、脱亜入欧をスローガンに、欧米の諸外国と肩を並べようとしていた時期で、軍部は大陸への進出を続けていました。
日清日露戦争に勝利し、国全体が気勢を上げ、商家の旦那衆なども気合いが入っていました。
そんな中で、旦那衆が金を出して奉納する旦那狛犬に、名品、大作、個性的な作品が続々と生まれていきます。

福島県広野町八幡神社 明治30(1897)年(日清戦争に勝利した3年後) 石工「当地石工鈴木次郎兵衛」 スマートなスタイルに個性的な猿顔の傑作



新潟県柏崎市 薬師神社 大正9(1920)年(スペイン風邪大流行の直後。関東大震災の3年前) 石工・矢代三之亟 構え獅子タイプだが出雲型とはまったく違う個性


新潟県十日町市 祇園社 大正10(1921)年(原敬首相暗殺) 非常に個性的な風貌



千葉県船橋市 春日神社 昭和3(1928)年(張作霖爆殺事件。世界恐慌の直前) 躍動感と生き生きした表情が素晴らしい


福島県古殿町 古殿八幡神社 昭和7(1932)年(満州事変の翌年。上海事変、5.15事件) 石工・小林和平の最高傑作

大正期や昭和一桁あたりの狛犬は、一種アバンギャルドというか、それまでの常識を打ち破るような造形のものも出てきます。
「アートとしての狛犬」という視点で見たとき、私はこの時期がピークではないかと思っています。

しかし、立派な石造物を作るにはかなりの金がかかるので、庄屋や商家の主人といった金を出す旦那衆の存在が必須です。施主の意向をまったく無視して自分の作りたいように作ることは許されません。
その旦那衆の奉納動機も、時代によって大きく変化していきます。日本が軍事力を増強しながら大陸進出をしていく中で、財力や地位のある旦那衆たちの多くは「日本はすごいんだ」「イケイケどんどん」的な高揚感を覚えていたでしょう。そんな時代に神社に狛犬を奉納するという動機もまた、軍国主義に染まった勇ましいものだったと思われます。鬣や尾を流れるように繊細に彫った江戸獅子の美意識よりも、威圧的な顔と筋肉もりもりの体躯を誇示する岡崎古代型のほうが、時代の空気には合っていました。


上に紹介した小林和平の最高傑作といえる古殿神社の狛犬(↑)は、台座に「満州事変皇軍戦捷記念」とあります。昭和7(1932)年という時代は、まさに国中がそういうムードでした。
しかし、この狛犬は同時期に日本中で奉納されていた岡崎古代型狛犬とはまったく別の、オリジナリティとアート性のかたまりのような大傑作になりました。施主たちが和平の才能と技量を信じ、自由に彫らせたからこそ生まれた奇跡といえるでしょう。
石工が狛犬制作を単なる商売であると割り切ってしまえば、個性豊かなアート作品としての狛犬は生まれません。コピーだろうがなんだろうが、立派に見える「石の像」を彫ればいいのですから。
また、石工が自分の個性やアート性を追求する芸術家タイプだったとしても、制作を依頼する施主が「○○神社にある狛犬と同じでもっとでかいやつ、とにかく厳つくてカッコいい狛犬を彫ってくれ」などと要求すれば、それをまったく無視するわけにもいきません。
与えられた条件、状況の中で、いかに自分らしい芸術的な作品を生み出せるか……。
アートとして成立した旦那狛犬の背景には、そうしたもろもろの物語が隠れているのだと思います。

「コピー狛犬」「護国狛犬」の時代へ

個性的な狛犬がどんどん出てきたこの時代ですが、一方で、岡崎古代型に代表される厳めしい像容の量産狛犬も増えていきます。
また、岡崎現代型の大ヒットもあって、狛犬の定型化、没個性化が一気に進みました。
「皇紀2600年」にあたる昭和15(1940)年に、その傾向は飽和状態を迎えます。全国の神社に新しい鳥居、石灯籠、狛犬などが数多く奉納されましたが、狛犬の多くは岡崎古代型、岡崎現代型に代表される完全に「パターン化」したコピー狛犬でした。
同じ像容の狛犬が量産され、どこに行っても同じような狛犬を見ることで、人々は「狛犬とはこういうもの」という固定観念を持つようになります。
↑栃木県佐野市 三柱神社 昭和5(1930)年。岡崎現代型としてはかなり出来がよい

↑東京都港区 赤坂氷川神社 昭和11(1936)年。典型的な岡崎古代型

↑栃木県 宇都宮護国神社 昭和15(1940)年。いわゆる「皇紀2600年もの」の岡崎古代型

↑栃木県 日光二荒山神社中宮祠 昭和47(1972)年。「彫刻師岡崎市成瀬大吉」の銘があり、日光の古社でも、戦後に岡崎石工に岡崎古代型を発注していたことが分かる

岡崎現代型、岡崎古代型の他には、籠神社の狛犬、東大寺南大門の宋風石獅子が数多くコピーされ、全国の神社に置かれました。
どちらも「我が国体の上から見て国民崇敬の中心率となるにふさわしい伝統的な装飾品」と見なされたからでしょうか。

籠神社の狛犬は昭和17(1942)年12月に国宝指定されましたが、これが敗戦前最後の狛犬の国宝指定になりました。
京都府宮津市 籠神社の狛犬(撮影:門野外喜雄)
籠神社狛犬のコピーは大型のものが多く、福岡では香椎宮(伝・弘化元=1844年)、太宰府天満宮(明治39=1906年)、筥崎宮(大正12=1923年)、福岡護国神社(昭和18=1943年?)、水鏡天満宮(昭和57=1982年、ブロンズ製)、十日恵比寿神社(平成20=2008年)……などなど、県内の有名神社の多くに籠神社狛犬のコピーが置かれています。

関東では靖国神社、箱根神社などに巨大な籠神社狛犬コピーがありますが、靖国神社のものは「石工・小澤映二」という銘の他に、「昭和四十一年秋 八柳恭次 作」とあり、八柳恭次という彫刻家が「作者」として名を記されています。
↑箱根神社の籠神社タイプ狛犬


↑靖国神社の籠神社タイプ狛犬 昭和41(1966)年 八柳恭次・作、石工・小澤映二


靖国神社に籠神社タイプ狛犬が奉納されるまでの経緯を日本参道狛犬研究会理事の山田敏春氏が『靖国神社百年史』などを元に調査したところ、
↑目黒不動尊にある、靖国神社の籠神社タイプ狛犬の原型となった石膏像
……という経緯を辿ったということです。
となると、靖国神社の籠神社タイプ狛犬は台座に名前のある石工・小澤映二が台座と設置だけでなく狛犬本体も彫ったか、別に彫刻専門の石工に彫らせたのでしょう。つまり「八柳恭次 作」とあるのはほぼ「名前貸し」と思われます。
このように、完全なコピーであるにも関わらず当時の著名な仏師、彫刻家を「作者」としているのは、明治神宮の内陣狛犬と同じで、権威づけをしたいからです。
当社の狛犬は彫刻界の大家である○○先生が「国民崇敬の中心率」となるにふさわしい「故実」にのっとって制作した由緒正しいものである、という主張でしょう。
しかし、モナリザの模写に有名画家の名前をつけて「○○画伯・作」として展示したりするでしょうか。明治神宮内陣の狛犬や靖国神社の籠神社タイプ模作狛犬はそういうことをしているのと同じだと思うのですが……。

私はこれらの狛犬を「護国タイプ」と呼んでいます。江戸時代の民間狛犬、特にはじめ狛犬に込められた庶民の素朴な祈りといった精神性が薄れ、「国家神道」色や「権威主義」を強く感じるのです。戦後の狛犬については「国体護持」というニュアンスもあるかもしれません。

こうして、戦後は完全に狛犬の没個性化が定着し、今に至っています。
今では狛犬を国内で彫ること自体が稀で、多くは中国などで作られています。台座に「○○石材店」と刻まれていても、その店の職人が製作したわけではなく、石材店は狛犬のカタログを見せて「どのタイプにしますか?」「大きさは?」などと選ばせ、中国に発注し、運ばれてきたものを設置するだけです。

よく「狛犬はどちらが雄でどちらが雌ですか」とか「玉を持つのは向かってどちら側ですか?」といったことを訊かれるのですが、そうした「ルール」を決めたがる人が多いことに驚かされます。
狛犬の魅力は造形の自由度や、作者の豊かな想像力を感じ取れることだと思うので、「狛犬とはこうあるべき」という杓子定規な決めつけは、狛犬の魅力を失わせるだけではないでしょうか。
決まり事は「向かって右が口を開いた阿像で、相方は口を閉じた吽像」「角をつけるなら吽像のほう」くらいでいいと思うのです。
私は、技術的に優れていてもコピー狛犬にはあまり魅力を感じません。
「国民崇敬の中心率となるにふさわしい、故実にのっとった装飾品」としての狛犬をありがたがる気持ちもサラサラありません。
下手でも、石工の自由な創造性や、素朴な祈りを込めた情熱を感じられる狛犬に惹かれます。
もちろんこれは私なりの「狛犬の楽しみ方」であって、他の楽しみ方を否定するものではありません。しかし、狛犬を40年見続けてきて、その背景にある時代の空気や人々の精神性まで見えてくることに、今さらながら感慨を覚えるのです。

文字に残せなかった思いを宿らせた石のアート作品としての狛犬。
そうした「魂」が宿った「生きた狛犬」が、このまま絶滅するのではなく、これから先も生まれてくることを願ってやみません。
(2022/01/23 記 たくき よしみつ)
(last updated: 2022/01/27) 

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