次は、八槻都都古別神社(福島県東白川郡棚倉町八槻)の狛犬(
前々ページで紹介)。建立年は天保11(1840)年。阿像と吽像でまったく顔が違うのが特徴。台座には奉納者の名前がびっしり刻まれているが、石工名は刻まれていない。
当時、これだけのものを彫れる石工がそうそういたとは思えない。利平の作品である可能性もあるだろうと思ったのだが、地元の郷土史研究家グループが神社の古文書などを丹念に掘り起こしたところ、
高遠から出稼ぎに来た留蔵、力蔵という石工の作であると分かったそうだ。なるほど、彫師が二人いて、別々に彫ったのであれば、阿像・吽像の作風が違うのも理解できる。
時期としては利平が福島にたどり着いたばかりの頃で、当時すでに高遠から福島に入ってきていた旅石工が他にもいたということになる。そうした高遠石工が地元の石屋に雇われる形で彫った作品が他にもいくつかありそうだ。
留蔵・力蔵が八槻都々古別神社の狛犬を彫っていたときに利平もすでに福島に来ていたなら、同じ高遠石工同士で、なんらかの連携や交流があったかもしれない。
さらには、留蔵・力蔵の作品は他にはないのか、二人はこの後どうしたのか(旅石工を続け、地元に帰っていたのか。それとも利平のように欠落ちしてどこかに住み着いたのか)が非情に気になる。
吽像の顔は平べったく、小林和平の狛犬の顔に似ている。和平が、近隣の狛犬の中では出色の出来と言えるこの狛犬を見て、無意識のうちにも作風に影響を受けたことは容易に想像できる。↓
3つめは、小林和平の墓のすぐそばにある八幡神社(福島県石川郡石川町沢井)の波乗り兎像。こちらは天保14(1843)年の建立。これにも石工名は刻まれていない。
この兎、石工名はないものの、奉納者は角田定右衛門と刻まれている。角田定右衛門は後に、小松寅吉最晩年の作となる長福院の毘沙門天像にも筆頭奉納者として名を連ねている。兎の制作もやはり小松家の工房に頼んでいたと考えるのが自然だろうから、この兎に関しても利平との関係を想像させる。
今は耳が折れてしまい、プレーリードッグのようになってしまっているが、表情といい、波のデザインといい、私はこの波乗り兎は福島県内での天保年間石造物の最高傑作と言ってもいいと思っている。
福貴作公民館そばの山中に、小松家の墓地がある。真新しい墓誌があるが、なぜかその中には利平布弘の名前がない。
利平の墓
しかし、墓地の中を探すと、単独で「理兵衛布弘墓 行年八十五歳」と刻まれた小さな墓石がある(上の写真)。
墓の横には「明治二十六年旧十月十五日八十四歳 孝子 小松彦蔵布重」と刻まれている。つまり、理兵衛布弘は明治26年に84歳(数えで85歳)で亡くなった。その墓を息子の彦蔵布重が建てた、ということだろう。明治26(1893)年に84歳だから、逆算すれば生年は1809年(文化6年)前後。年代から考えて、これは「利平布弘」に間違いない。利平は晩年、あるいは没後に先祖の「理兵衛」を襲名したと考えられる。
墓地内には、利平が高遠から持ってきた、あるいは福貴作にひっそり移り住んだ後に建てたと思われる先祖利右衛門の墓石もある(左の写真)。
今のところ、小松利平布弘の存在を示すものは、この小さな墓石くらいしかない。意識的に身を隠していたとすれば、天保年間に彼が彫った作品を証明できる資料は残っていないだろう。小松利平布弘という石工は、今後もずっと「謎の石工」のまま、名前だけが伝えられていく運命なのかもしれない。