神の鑿(のみ) 寅吉・和平の世界

寅吉・和平の世界7

謎の高遠石工・小松利平布弘

(2023/12/12 updated)
 寅吉・和平の世界は、一体どのようにして生まれたのか。あれだけのものが、突然降って湧いたように南福島の地に出現するはずはない。
 遡っていくと、高遠藩にたどり着く。
 高遠藩は、下総多古の保科正光が、父保科正直の故地信濃高遠に二万五千石で入封したことに始まる。正光は二代将軍徳川秀忠の隠し子を嗣子(保科正之)にして育てたことで有名。その後、鳥居氏、内藤氏と変わった。
 元禄3(1690)年、幕府は厳しい検地を断行し、高遠藩から六千三百余石を召し上げた。財政が逼迫した高遠藩は、耕地の分散を禁じるとともに、農家の次男以下は積極的に他国へ出稼ぎに行くよう奨励。その際、藤沢郷や入野谷郷などの人々に石工の技術を習得させ、全国各地へ送り出した。藩は旅に出た石切職人を取り締まるため、各郷に「石切目付」を置いて運上金の取り立てを行った。帰郷しない者は、請人が迎えに行って連れ戻すという厳しい取り締まりぶりだったが、それでも出稼ぎ先で家庭を作るなどして欠落人(かけおちにん=藩の掟を破って戻らない者)になる石工が後を絶たなかった。
 高遠石工の中では、多数の石仏を残した守屋貞治、東濃路に流れていって東白川村に住み着いた伊藤傅蔵、越後に流れ、六日町周辺に多数の石仏や石塔を残した太良兵衛などが知られているが、小松利平(後に理兵衛)布弘もまた、ご禁制を破って欠落人となった高遠石工のひとりだったらしい。
 利平の系図は、
 利右衛門─理兵衛布孝─利平(理兵衛)布弘
 ……と続いており、代々石工だったようだ。どういう経緯で南福島の地に移住したのかは分からない。
 ひとつには、南福島は良質な石を産する地域だったということがあるかもしれない。利平が移り住んだ福貴作(ふきざく)という集落(現在の福島県石川郡浅川町福貴作)には、福貴作石と呼ばれる良質な石材が採れる石山がある。交通手段も大型機械もない時代、石工は良質な石が採れる土地のすぐそばに工房を構えるしかなかった。水運の便もない内陸部ゆえ、この石を利用するにはどうしてもこの地に住み着く必要があった。それだけ福貴作石の品質に惚れ込んだのかもしれない。
 利平布弘の銘が残った作品は、まだ見つかっていない。欠落ちし、追われる身となったことで、台座に名前を彫れなかったということも想像できる。

 私は当初、利平が高遠から福島に渡ってきた天保年間の作品として、傑出しているもののいくつかが利平の作ではないかと想像していた。
 まずは、須賀川市の旭宮神社の狛犬。建立年度などの銘が一切ないが、江戸時代のものと思われる。この神社には寅吉が晩年に彫った恵比寿像があり、その関連から狛犬も小松家が彫ったのではないかという想像ができる。
 阿吽で巻き毛の表現が変えてあるところや、子獅子の彫り方に、八槻都都古和気神社の狛犬に共通するものがあるが、石の摩耗が激しく、阿像は顎部分が欠落しているのが残念(下の写真)。
旭宮神社 吽   旭宮 阿
 次は、八槻都都古別神社(福島県東白川郡棚倉町八槻)の狛犬(前々ページで紹介)。建立年は天保11(1840)年。阿像と吽像でまったく顔が違うのが特徴。台座には奉納者の名前がびっしり刻まれているが、石工名は刻まれていない。
 当時、これだけのものを彫れる石工がそうそういたとは思えない。利平の作品である可能性もあるだろうと思ったのだが、地元の郷土史研究家グループが神社の古文書などを丹念に掘り起こしたところ、高遠から出稼ぎに来た留蔵、力蔵という石工の作であると分かったそうだ。なるほど、彫師が二人いて、別々に彫ったのであれば、阿像・吽像の作風が違うのも理解できる。
 時期としては利平が福島にたどり着いたばかりの頃で、当時すでに高遠から福島に入ってきていた旅石工が他にもいたということになる。そうした高遠石工が地元の石屋に雇われる形で彫った作品が他にもいくつかありそうだ。
 留蔵・力蔵が八槻都々古別神社の狛犬を彫っていたときに利平もすでに福島に来ていたなら、同じ高遠石工同士で、なんらかの連携や交流があったかもしれない。
 さらには、留蔵・力蔵の作品は他にはないのか、二人はこの後どうしたのか(旅石工を続け、地元に帰っていたのか。それとも利平のように欠落ちしてどこかに住み着いたのか)が非情に気になる。

 吽像の顔は平べったく、小林和平の狛犬の顔に似ている。和平が、近隣の狛犬の中では出色の出来と言えるこの狛犬を見て、無意識のうちにも作風に影響を受けたことは容易に想像できる。↓
八槻都都古和気神社の狛犬吽の顔  


 3つめは、小林和平の墓のすぐそばにある八幡神社(福島県石川郡石川町沢井)の波乗り兎像。こちらは天保14(1843)年の建立。これにも石工名は刻まれていない。
兎        
 この兎、石工名はないものの、奉納者は角田定右衛門と刻まれている。角田定右衛門は後に、小松寅吉最晩年の作となる長福院の毘沙門天像にも筆頭奉納者として名を連ねている。兎の制作もやはり小松家の工房に頼んでいたと考えるのが自然だろうから、この兎に関しても利平との関係を想像させる。
 今は耳が折れてしまい、プレーリードッグのようになってしまっているが、表情といい、波のデザインといい、私はこの波乗り兎は福島県内での天保年間石造物の最高傑作と言ってもいいと思っている。

 福貴作公民館そばの山中に、小松家の墓地がある。真新しい墓誌があるが、なぜかその中には利平布弘の名前がない。
利平の墓
利平の墓


 しかし、墓地の中を探すと、単独で「理兵衛布弘墓 行年八十五歳」と刻まれた小さな墓石がある(上の写真)。
 墓の横には「明治二十六年旧十月十五日八十四歳 孝子 小松彦蔵布重」と刻まれている。つまり、理兵衛布弘は明治26年に84歳(数えで85歳)で亡くなった。その墓を息子の彦蔵布重が建てた、ということだろう。明治26(1893)年に84歳だから、逆算すれば生年は1809年(文化6年)前後。年代から考えて、これは「利平布弘」に間違いない。利平は晩年、あるいは没後に先祖の「理兵衛」を襲名したと考えられる。
利平と思われる墓石
 墓地内には、利平が高遠から持ってきた、あるいは福貴作にひっそり移り住んだ後に建てたと思われる先祖利右衛門の墓石もある(左の写真)。
 今のところ、小松利平布弘の存在を示すものは、この小さな墓石くらいしかない。意識的に身を隠していたとすれば、天保年間に彼が彫った作品を証明できる資料は残っていないだろう。小松利平布弘という石工は、今後もずっと「謎の石工」のまま、名前だけが伝えられていく運命なのかもしれない。

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