大胆推理・内藤慶雲物語


 ときは明治15(1882)年12月。溝の口石工・内藤留五郎は、高石にある法雲寺に無事奉納された馬頭観音像を見上げながら大きなため息をついた。
 隣には、四半世紀前の安政3(1856)年に、登戸の石工・吉澤藤三光信が造った馬頭観音像がある。
 それを見下ろす形で、留五郎が作った馬頭観音像は、円柱の基盤の上に3段の台座を重ね、さらにその上に蓮座を置き、設置されている。地面からの高さは吉澤が造った馬頭観音像の倍以上になる。
 もう、無理矢理高くしている。何がなんでも吉澤の馬頭観音には負けないという、あからさまな見栄がみえみえ。テレビチャンピオン石工デコレーション大会決勝というノリである。
 留五郎は心の中で呟いていた。
「ついにここまできた。溝の口の田舎石工と馬鹿にされながらも、わしはついに川崎一の石工になった。今、わしの右に出る石工はこの界隈ではいないだろう」

 もともと川崎というのは、華やかな江戸や粋な横浜の文化に挟まれたド田舎。
 あの千葉や、ダ埼玉の連中にまで、「かわさきぃ? だっせーじゃん」と馬鹿にされている。
 特に北部は、今でこそ東急と小田急の陰謀が成功して高級住宅街のイメージがあるものの、当時はタヌキのほうが人間よりよっぽど多かったという土地柄。
 当然、石工の世界も、地元の石工のレベルは知れたもので、できれば江戸に発注したいと思う施主が多い。依頼された江戸石工たちも、しゃあねえ、ついでのときにでも片づけてやるか、と、見下しながら仕事を受けてやる感覚だった。
 そんな中、文化文政の頃から、登戸の吉澤氏が着実な仕事をこなし、川崎北部での地盤を固めつつあった。

 留五郎は、その吉澤氏に対抗する形で、明治期になってから溝の口石工を名乗って旗揚げした。
 腕は確かで、特に狛犬や石仏など、デザインの凝った石造物を彫らせたら留五郎がいちばんだという噂は、たちまち広がっっていった。

 明治15年という年は、留五郎にとっては特別な年であった。
 2月に黒川(現麻生区)の汁守神社に、手水石、灯籠、狛犬を造り、9月には狛江の八幡神社にも手水石と狛犬を、そして12月にはここ法雲寺に馬頭観音……と、まさに働きづめに働いた。
 正直なところ、汁守神社以降の作品は、存分に力を発揮できたとは言い難い。かなり乱造気味で、反省もしていた。

汁守神社の狛犬(明治15年12月建立)
撮影・たくき よしみつ

八幡神社の狛犬(明治15年9月建立)
撮影・阿由葉郁夫

 しかし、今、川崎にこれだけの仕事ができる石工がいるだろうか?
 留五郎は不遜ながら自問してみた。
 去年、長沢の諏訪神社に建立された狛犬は、二子の小俣松五良が造ったものだが、江戸獅子の貧弱なコピーで、自分のほうがずっとうまい。

諏訪神社(長沢)の狛犬(明治14年建立。石工・二子・小俣松五良)
撮影・たくき よしみつ
 登戸の吉澤は、ここ数年狛犬を手がけていない。狛犬を彫れる石工が不在なのだ。

 溝の口石工・内藤留五郎の時代が来た!
 うん、うん。今、わしは胸を張ってそう言い切れる。

 しかし、そんな今をときめく留五郎は、密かに、一つの不満と一つの不安を抱えていた。
 不満は、自分のオリジナルと言える狛犬のスタイルを確立しきれていないことだった。
 美しい江戸タイプを得意とする留五郎だったが、それは江戸石工たちが築き上げた狛犬文化の最終スタイルをコピーしたにすぎない。どんなに美しく、見事に彫り上げたところで、江戸石工の目から見れば「所詮コピー」だ。
 汁守神社の狛犬は、留五郎にとって、生涯の最高傑作ともいえる代物だった。ところが、江戸の石工の一人に、「川崎の田舎石工にしちゃあ、結構うまいこと江戸獅子を真似ているじゃねえか」と評された。
 悔しくて、一旦は刻んだ「石工・溝の口内藤留五郎」という銘を、削り取ってしまったほどだった。
 どんなに美しく、見事に彫り上げたところで、江戸石工の目から見れば「器用な写し」にすぎない。江戸石工が江戸獅子を造ると伝統を継承したと言われるのに、溝の口の内藤留五郎が江戸獅子をコピーすると、「田舎石工が真似をした」とさげすまれる。
 差別だ! 溝の口のどこが悪い。南武線がもともと貨物線だからって、馬鹿にするな!
 しかし、いくら悔しがってもどうにもならない。南武線だって明治にはまだ開通していない。

 実は、留五郎は、かねてより、江戸獅子のコピーの他に、自分なりの狛犬スタイルを追求していた。
 一昨年、都下の小金井神社(小金井市中町)と青渭神社(調布市深大寺元町)から相次いで狛犬の制作依頼を受けたが、「辺境の地」川崎から、江戸石工たちのなわばりに遠征する意味で、わざと典型的な江戸獅子とは少し色合いの違った狛犬造りに挑戦してみた。
 しかし、多少の個性は芽生えてはいたが、それまで自分が造った江戸獅子のコピーより出来は悪く、満足できなかった。
 この「留五郎タイプ」の狛犬を完成させたときこそ、石工・内藤留五郎は、「コピーがうまかった、器用な田舎石工」ではなく、本物の芸術家として名を残せるのではないか……。
 これが今まだ残っている「不満」である。

 不安のほうは、ずばり後継者問題である。
 留五郎には二人の息子・留吉と留佐がいた。
 しかし、出来が悪い。長男の留吉は、弁は立つが、こつこつとした努力を嫌う。
 次男の留佐は、ついこのあいだまで尋常小学校。
「進め進め兵隊さん進め。狛犬さん、あ。狛犬さん、うん……あ、これ、お父ちゃんが造ってるんだよー」
 おうおう、可愛いやつじゃのう、留佐は。
 留佐は、性格は素直なのだが、線が細く、しかも不器用。
 この二人を鍛え上げるのにはまだまだ時間がかかる。
 留五郎はもうすぐ五十路。石工は概して短命である。石の粉を吸い続けた肺が、長生きを許さない。
〈わしに残された時間は、もうそれほどはない……〉
 留五郎は、江戸獅子狛犬のコピーをやめ、残りの人生を、自分流の狛犬スタイル確立と、息子たちへの技術継承にあてることを決意した。


小金井神社の狛犬(明治13年9月建立)
撮影・阿由葉郁夫

白山神社の狛犬(明治20年9月建立)
撮影・たくき よしみつ

 明治20年、白山神社(現麻生区王禅寺)に、ようやく自分流の狛犬を建てることができた。奉納式典が終わった夜、留五郎は二人の息子・留吉と留佐を呼んでこう告げた。
「溝の口石工・内藤留五郎は今日を持って引退する。明日からは、内藤石材店で造る石造物にはすべて「内藤慶雲」の銘を入れるものとする。
♪慶雲、それは、きみが見た光 ぼくが見た希望~
慶雲、それは~幸せの~狛犬さ~慶雲……♪

 実は、慶雲の銘は、その前年、久末の地に自らひっそりと奉納した地蔵にすでに刻んでいた。しかし、白山神社の狛犬だけは、「留五郎」のオリジナルとして、留五郎銘を刻んだのだった。
 
 二人の息子たちは留五郎の言いつけにより、慶雲銘での石造物製作に精を出した。しかし、まだまだ腕が伴わない。特に狛犬のように細かな細工を必要とするものを、二人の息子たちは苦手としていた。
 翌明治21年には八幡神社(現都内世田谷区太子堂)に、23年には中原の八幡大神(現中原区上平間)に狛犬を奉納したが、どちらも留五郎がつきっきりで指導したものだった。

八幡神社(太子堂)の狛犬(明治21年10月建立)
撮影・阿由葉郁夫

八幡大神(中原)の狛犬(明治23年8月建立)
撮影・阿由葉郁夫
 留五郎にはもうノミをふるう力が残っていなかった。
 大方、彫ったのは息子たちだった。世田谷太子堂の八幡神社の狛犬は留五郎オリジナルタイプ、上平間の八幡大神の狛犬は、留五郎がかつて得意とした江戸獅子のコピータイプだったが、どちらも留五郎全盛期のものを超える出来とは言えなかった。
 明治24年の杉山神社(現横浜市緑区都筑区勝田町)も、同じように、留五郎がつきっきりで指揮し、息子二人が彫り上げるという作業の末のものだった。

杉山神社(勝田)の狛犬(明治24年9月建立)
撮影・阿由葉郁夫

瀬田玉川神社の狛犬(明治32年4月建立)
撮影:三遊亭円丈

 そして、息子が自分に追いつくことを見届けられぬまま、ついに内藤留五郎はこの世を去った。
 父に手取り足取り指導してもらえなくなった息子たちは、独力で狛犬を彫り上げなければならなくなった。
 留五郎の名声を引き継いだ「溝の口内藤慶雲」は川崎では一つのブランドとなり、今や登戸吉澤耕石ブランドと並ぶ売れっ子になっていた。折りからの奉納ブームにものり、狛犬の注文が次から次へと入る。
 もともと腕よりも弁が立つ長男留吉は、父がいなくなると、ますます職人としてよりも経営者としての腕を振るうようになった。
 何人も石工たちを抱え、工房大量生産体制を築きあげた。

「内藤石材店、朝礼ー!
 慶雲数え歌、始め!
 一つ、ひとを見たら墓石と思え。
 二つ、ふるうノミから金がざくざく。
 三つ。溝の口だよ内藤慶雲。登戸吉澤は砂利屋です。
 四つ。よい狛犬より儲かる墓石。
 五つ。いつも石屋は現金払い。払わず死ぬやつは地獄行き……」
 そんななりふり構わぬ営業の鬼となった兄・留吉を、弟の留佐は複雑な思いで見ていた。
「兄ちゃんよ、内藤石材店が繁盛するのは結構なんだが、俺はどうしても親父の愛した狛犬に力を入れてみたいんだ」
「あんだとぉ? 生意気こきゃあがって。おめえみてえなへたくそに狛犬が彫れるか。それに、狛犬だけにかまってはいられねえんだ。狛犬は手間ばっかかかって儲からねえ。お抱えの石工連中に適当にまかせときゃいい。おめえは帳簿つけでも手伝え」
 一度は却下されたものの、明治32年、なんと内藤石材店ではいっぺんに4社から狛犬の製作依頼を受けた。
 瀬田玉川神社(現都内世田谷区瀬田4-11)、杉山神社(現川崎市高津区末永)、白鳥神社(現川崎市麻生区白鳥)、杉山神社(現川崎市多摩区西生田)。
   とても間に合わないというので、ついに留佐にもチャンスが回ってきた。留佐は必死の思いで、二対四体の狛犬を彫り上げた。
 それを見た留吉が言った。
「なんじゃこりゃ? ぶっさいくな狛犬だな。まあいい。彫っちまったもんは仕方ねえ。こっちは杉山神社、こっちは白鳥神社からの依頼の分ってことにするか」
 瀬田玉川神社にいたっては、ついに新しく造るのが間に合わず、父・留五郎が失敗作として世に出すのをはばかり、しまっておいたかつての留五郎オリジナルタイプを持ち出してきて納品した。

白鳥神社の狛犬(明治32年建立)
撮影・たくき よしみつ
 不細工ながら、留佐の彫った狛犬には味があった。
 留佐はしかし、ここで力尽きてしまった。自分の石工としての技量に気づいてしまったのだ。どんなに努力したところで、父親・留五郎の技術を超えることは一生かかっても不可能だろうと悟ってしまった。
 もともと気が弱かったということもあったが、その後の留佐は、次第に営業の鬼である兄貴の言うなりに動くようになった。

 登戸の吉澤耕石とのライバル争いは、この時期、さらに熾烈を極めていた。
 吉澤では、爬虫類顔とでも言えるような、薄っぺらい顔とつり上がった目の狛犬を造り始めていた。
「どうだい。いつまでも江戸獅子じゃ駄目だぜ。お国は今大変なときなんだ。これからの狛犬は凶暴なまでに強く見えなくちゃいけねえよ」
 吉澤グループはそう主張していた。
 内藤石材店にも「やっぱり狛犬は強そうに見えなくちゃね。吉澤の狛犬みたいなのがいいんだがなあ」という注文をつける依頼人が出てきたりもした。狛犬にも流行がある。商売人の留吉は、そうした注文にも「はいはい」と素直に応じた。
 そのうち、吉澤の下で修行していた石工を内藤が引き抜いたり、頭領・留吉の腕に疑問を抱いた優秀な弟子が独立したりと、内藤石材店の石工の出入りは激しくなった。

椙山神社(三輪町)の狛犬(大正7年9月建立)
撮影・たくき よしみつ

月読神社の狛犬(大正7年11月建立)
撮影・たくき よしみつ
 そんな中で、内藤慶雲の名で、さまざまな狛犬が造られた。不出来な江戸タイプ、ライオン顔の現代風狛犬、かつての留五郎オリジナルタイプを踏襲しようとした丸みを帯びた柔和な顔のもの、その年のニュースを題材にした変わり狛犬、もちろん額に家紋も入れられます……って、なんだかよくわからない狛犬……などなど。

伊豆美神社(狛江市)の狛犬(大正13年12月建立)
撮影・三遊亭円丈

高木神社(都内目黒区0)の狛犬(昭和4年10月建立)
撮影・三遊亭円丈
 しかしどれも、かつて留五郎が彫った江戸獅子(汁守神社)や留五郎オリジナルタイプ最終形(白山神社)の出来には及ばなかった。
 結局、内藤留五郎が全盛期に抱いていた不安は的中したのである。
 内藤石材店は留五郎の死後も繁盛し続けたが、ついに留五郎を超える後継者は出なかった。  

 内藤留五郎は器用で腕のいい石工だった。しかし、全国区で見れば、見た者に圧倒的な感動を与える名工とまで言えるかどうか。汁守神社の狛犬で技術的には頂点に達したと思われる江戸獅子にしても、「美しいなあ」とは思うものの、自由な精神や何か新しいアートを追求したオリジナリティには欠ける。
 その留五郎以降、傑出した名工が川崎で活躍した形跡は今のところ見あたらない。川崎石工の歴史は、やはり江戸獅子のコピーという段階で終わってしまったのだろうか。
 留五郎を超える石工が出ないまま、川崎・多摩地域の狛犬は、その後、岡崎現代型や護国タイプのコピー時代へと入っていく。
 名工伝説は、かくのごとく、生まれにくいものなのである。

(おしまい)
 ◆この物語はまったくのフィクションであり、現存する狛犬から勝手に推理を働かせて落語風にでっちあげたものです。実際の内藤石材店、吉澤石材店や実在の人物とはまったく関係がありません。どうぞ大目に見てやってください。

■推理の元になった資料提供者:  阿由葉郁夫(データ及び写真)、三遊亭円丈(データ及び写真)、伊藤重信(「石造物に現れた石工たち~川崎市域における石工の活動圏~」)


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